英語ことはじめ

学校英語教育の是非

このように考えてくると、日本人の英語下手は必ずしも学校英語教育が唯一の原因とは言えないことがわかります。 実は、ここまでのお話は学校英語擁護論者の主張で、これらの点については私も同調しています。 ところが、学校英語擁護論は、ここから英語が身に付かないのは個人の努力が足りないからだと結論づける傾向があります。

学校英語の犠牲者の一人として、そして学校英語から開放された後、自力で外国語を身につけた者として、日本の学校英語教育を無条件に擁護する気は毛頭ありません。

日本人にとって習得しやすいものではない英語を、限られた時間(約800時間)で、多数の生徒に対して教えることは、決して簡単なことではありません。 だからといって、英語が身に付かないのは個人の責任だ、とするのは一国の教育としては明らかに無責任です。

たとえどのようなマイナス要因があるとしても、中高6年間もかけているのに、英語で満足にコミュニケーションをとることができない英語嫌いを大量に産出している日本の中学・高校英語教育には明らかに欠陥があります。

英語は「できる/できない」もの

日本の学校英語教育は、英語の知識を詰め込むことに熱を上げています。これが英語嫌いを大量に生産する元凶となっています。 言語学としての英語を教えるのならばそれでいいのですが、それは大学で、英語学を専攻している学生がすればよいことで、中高生がすることではありません。

私は英語を体育や音楽と同じ範疇で捉えるべきだと考えています。スポーツや楽器演奏の能力は「できる/できない」で形容されるものです。英語も本来は「できる/できない」で形容されるべきものなのに、日本の英語教育は「知っている/知らない」で形容できる、知識を重視するものになってしまっています。

学校英語教育問題の根本は、日本人にとって習得しにくい英語を、限られた時間で教え込もうとしているところにあります。 とはいっても、日常会話に不自由しないスピーキング能力を身につけるのに必要な時間の3分の1にも満たない授業時間では、いくら効率よく詰め込んだところで身につけられるわけがありません。

結局のところ、学校だけで教えるのは不可能なわけなのですから、如何にして生徒に自主的に学ばせるか、という点に重点をおくべきだと思います。言い換えれば、外国語を学ぶことの楽しさと有用性、そしてどのように身につければいいのかということを伝えることができれば良いのではないのでしょうか。

学校英語教育については、機会がありましたら、稿を改めて考えてみたいと思います。

英語嫌い「日本」は英語学習者のチャンス

日本人の英語下手について考えてきましたが、たとえいくら学校英語を非難したところで、いまさら英語ができるようにはなりません。 逆に考えると、みんな英語ができないのですから、自分ができるようになれば一目置かれる存在になれます。

日本で生まれ育った限り条件は同じなのですら、効果的な語学学習法で、みんなに差をつけてしまいましょう。

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